だが、ナリタブライアンが完調だったとしても、果たしてサクラローレルに勝てたかどうかは疑わしい。そう認めざるをえないほど、96年の彼はほぼ完璧なパフォーマンスを見せた。
自分にとって、この馬はまた特別だった。
高校を中退して家にいても親との喧嘩が絶えず、かといってたくましく稼ぎに出るポテンシャルもなかった自分はほんの短期間実家を離れることになった。
といっても、大げさなものではなく、行き先は祖父母の家。幼い頃、夏休みや冬休みに泊まりにいくのが楽しみだった場所。
しばらく置いてもらえることになった。
祖母は江戸っ子だったらしく、不躾ではないのだがズケズケ言うタイプ。
転がり込んできた孫を受け入れつつも、厳しいことは言ってきた。祖父はあまり言ってこないタイプ。主に口論になるのは祖母と。
今思い返せば、いつ追い出されても仕方ない態度をとっていた。
祖父母宅でも競馬は見ていた。
96年オールカマー。サクラローレルが始動し、危なげない勝利。マヤノトップガンはパッとしなかった。
ある日、祖母と2人で出かけることになった。駅前で祖母が腕を組んできた。自分は咄嗟に振り払ってしまった。そこは地元でもないのだから誰かに見られて恥ずかしいことはないにも関わらず。思春期特有の恥じらいだったかもしれないが、それにしてもひどい孫だ。
さすがに祖母も傷ついたらしく、「二度と腕組まないわよ」と怒っていた。そらそうだ。
96年天皇賞秋。サクラローレルは3着に敗れる。というかノリがミスった。もったいないレースだった。勝ったのはバブルガムフェロー。エビちゃんG1初勝利。
相変わらずささいな口喧嘩をはさみながらも、祖母と祖父は自分を置いてくれていた。
自分は自分でなるべくこの先の人生を考えないようにしていた。
96年有馬記念。サクラローレル完勝。まともに走れば敵なしであることを証明した。ノリ嬉しそう。マヤノトップガンとの勝負付は済んだと思った。この時は。
実家に戻ることにした。細かい心情は覚えていないが、さすがにこれ以上祖父母に迷惑をかけるわけにもいかないと少年ながらわかっていたのだろう。
その後もたまに祖父母宅に行くことはあったが、迷惑をかけた罪悪感からか、幼いころのようなワクワク感はもはやなかった。
相変わらず祖父は静かで祖母はお説教してくる。
恩を忘れたというわけでもないが次第に足が遠のく。
自分は大検を取って大学へ進んだ。とはいえそれで大幅に人生が好転したわけでもなかった。
先に祖父が死んだ。
ますます足が遠のいた。
数年に一度顔を出すくらい。そして説教を食らう。でも、別れ際にこそっと小遣いをくれる祖母。
さらに時は経ち、祖母が怪我をしてすっかり元気がなくなったという知らせが入ってきた。
ここでお世話になっていた孫が駆けつけ、今までのお返しに祖母を励ます感動話…はない。
見舞いにすら行かなかった。もちろん祖母が嫌いなわけではない。いくつか理由はあるが、祖父母宅に置いてもらっていたあの頃からたいして変わっていない自分を見せるのがとても恥ずかしかったというのも大きい。それでも顔を見せにいくのが正しいあり方なのはわかっていたが。
またしばらくして、かなり容態が厳しくなってきたという知らせを受け、さすがにその時は祖母のもとへ向かった。祖母はすっかりやせ細り、見た目も別人のようになっていた。もはやほとんど会話はできない状態であった。
これが最後だなというのはすぐにわかった。でもそういう時は案外言葉が出てこない。ありきたりなお礼しか言えなかった。そしてそれが伝わっていたかどうかはわからない。
数日後、祖母は死んだ。
葬式で祖母の遺体と対面したとき、ろくに顔すら見せなかった分際で自分でもびっくりするくらい泣いてしまった。
その日を境に、私は心を入れ替え、他人にやさしく、家族のキズナを大切に…なんてことにはやっぱりならなかった。たいして10代のあの頃と変わっていない。
けど、サクラローレルの映像を見るたびに、血統表の中から「サクラローレル」という名前を見つけるたびに、居場所がなく祖父母宅に転がり込んだこと、何も言わずに置いてくれた祖父のこと、ガミガミ言うけど気遣ってくれた祖母のこと、とっとと死にてーなーと思っていたあの日々のことが鮮明に蘇る。
サクラローレルも高齢になった。そう遠くない将来訪れる彼の死とともに、こうした思い出もやがて消えていく。雨の中の涙のように。
ちなみに、JBIS*1で検索するとブレードランナーという馬は3頭ヒットした。
ばーちゃんスマン。お世話になってたけど俺変わってないわ。相変わらず競馬好きだし。人生はクソだと思ってるし。まあでもサクラローレルは少しでも長生きしてくれ。